
足軽は乱取りがメイン報酬のため戦とは無関係な村なども襲撃して金品を奪ったり最悪である、そして戦国武将は勝つために皆それを黙認した
いや、織田信長と豊臣秀吉は乱取りを厳罰化したよ、信長上洛時には略奪を死罪とする程にね
信長と敵対する宗教勢力が操る一向一揆という例外はあれど、織田領内では占領地の領民による大規模な反乱は殆ど起きなかった。
甲州征伐の際、武田領の民達が織田軍を歓迎して武田領の道案内をしていたのも織田の統治は当時から評判が良かったから
信長の上洛は足利義昭を担いだ上の話で当然略奪なんかしたら株が下がるので禁じた
てかその後織田信長が行なった上京焼き討ちを知らんのか?
フロイスは焼き討ちの光景について、下記のように記している。
「恐るべき戦慄的な情景が展開され、全上京は深更から翌日まで、同地にあったすべての寺院、僧院、神、仏、財宝、家屋もろとも焼失し、確認されたところでは、都周辺の平地二、三里にわたって五十ヵ村ほどが焼け、最後の審判の日さながらであったという。兵士や盗賊たちは僧院に赴き、哀れな仏僧らは僧衣を俗服に替え、袖や懐に彼らが所持していた金銀、また良き茶の湯の器を押し込んだが、その結果、さっそく追剥の手中に陥り、所持品や衣服を奪われたのみならず、虐待と拷問によって、彼らが隠匿していたものを白状するように強制され、結局そのとおりにさせられてしまった。兵士や盗賊らが、出会った男女や子供たちからその所持品を奪い取るため加えていた残虐行為に接するのは、きわめて嘆かわしいことであった」
また、人的な被害も甚大であり、百姓・町人に多数の死者が出た。『兼見卿記』4月4日条では、「洛中洛外において町人・地下人数知れず殺害」と記されていることこから、人々を死に追いやったのが炎ではなく、信長の軍勢による殺戮であったことを示している。
「町人・地下人」殺害の具体的な例としては、以下に詳しく記されている。『年代記抄節』では、信長の軍勢が「京都辺土」で殺戮を繰り広げ、「取り物ども山のごとくなり」と記されており、乱妨狼藉によって殺害されたことがわかる。『日本耶蘇会年報』では、「美濃・尾張の兵士」が「上の都」(上京)の人々を捕らえ、「小児」まで殺害したと記している。
また、避難した市民の中には、川で溺死する者も多かった。 東光寺光明過去帳では、「上下の人びとの道俗・男女・子供」が逃げるさなか、信長の軍勢に追いやれ、「大井川や桂川の川流れ」で「打ち死に」した、と記されている。『日本耶蘇会年報』では、「捕えられことを恐るるのあまり、水流のはげしくて深きをわすれ、川に入りて足の立たざるところまですすみ、たちまち水に流され、漁夫が魚を取らうるために設けた柵にかかりて死んだ」と記されている。
「町人・地下人」を死に追いやったのは、信長の軍勢による乱妨狼藉に他ならなかった。このとき、京都においてすさまじい暴力の嵐が吹き荒れたことは、洛中・洛外の人々に深く刻みこまれた。
上京焼き討ちに至るまで何日かかったと思う?
信長は義昭に猶予を与え、待った。
実際京の民衆は上京焼き討ちの原因を足利義昭と認識し、織田信長に対する恨みより信長の警告を無視して京の民衆を見捨てた足利義昭に対する恨みの方が勝った
史料もないただの妄想やんけ
西軍に勝ってほしかった
秀吉が水攻めとか非人道的な事をやったツケ
それを思いついたのは黒田官兵衛だけど
厳密には「禁制」が発令された惣村での略奪は大名権力で禁止された
関ヶ原の戦いでも勝敗がついたと広まったら周りの村々の代表が禁制の書状を求めに金品をもって家康の本陣に出向いた
上杉謙信は関東へ侵攻する度に大規模な乱取りを行った為に次第に関東の民衆は上杉を恐怖の略奪者と認識し、結果上杉は人心を失い関東への影響力が低下することとなる
尾張、美濃で奴隷とした売却されたと信長公記にある
学校の歴史の教科書では知ることの出来ない内容だね
そう考えると徳川家康のイメージがくずれちゃう
信長を保守的な人物と評する人間もいる、実際信長の実態は昔のイメージとは懸け離れているが十分革新的な大人物
織田信長も禁制が実行されたなかった地域では京都や越前のように乱取りを行ったし他の勢力と全く同じ
乱取りどころか有岡城のように皆殺しもよく行なった
井沢元彦ベースの信長英雄史観にハマってそう
乱取り無しで行けるシステムを作り出したのは事実だろう
これは明確な謀反ですぞ!
なぜこれを言える奴がいなかったのか
乱取りの目的と上京焼き討ちの目的、両者には終戦後と終戦以前という明確な違いがある
まず乱取りは兵糧や兵達のストレス解消、つまり略奪によって自国の統治の安定化を目的としたまさに蛮族の行為。
対して上京焼き討ちは足利義昭を降伏させる為の戦略的な行為、実際”上京”の文字を見ろ、信長は秩序を持った焼き討ちを行ったんだぞ



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