【歴史】ヤマト建国は縄文への揺り戻し運動だった? 弥生社会の九州勢力に勝てた理由

1 名前:一般よりも上級の名無しさん 投稿日時:2021/10/13(水) 22:56:52.74 ID:USn6T2Yk9

ヤマト王権は西の勢力が打ち立てた――長い間、日本の史学界ではそう考えられてきた。しかし、纒向遺跡の発掘調査と研究によって、その常識は打ち破られつつある。ヤマト建国の背景には、東の文化(縄文)が色濃くあることがわかってきたのである。

※省略

ヤマト建国は三輪山麓の扇状地・纒向遺跡(奈良県桜井市)で始まった。3世紀初頭、それまで何もなかった場所に巨大人工都市が出現したのだ。各地から土器が集まり、前方後円墳が誕生し、この独自の埋葬文化を各地の首長が受け入れ、造営した(造営の許可をヤマト政権が出したのだろう)。

※省略

「北部九州の邪馬台国が東に移動してヤマトは建国された」という考えは、もはや通用しないのである。それどころか、ヤマト建国前後の人の流れは、かつての常識を嘲笑うかのように、東から西なのだ。

ヤマトや近畿地方の人びとが、大挙して北部九州に押し寄せている。これは考古学が示す客観的な事実だ。ここに大きな謎が横たわる。

弥生時代後期の北部九州は、鉄器の保有量で、他の地域を圧倒していた。この時代の鉄は朝鮮半島南部(のちの伽耶の地域)が主な産地だった。倭人だけでなく、周辺の人びとが鉄を求めて群れ集まっていたことは、中国の歴史書に記録されている。

そして、ヤマトの発展を恐れた北部九州は、鉄を東に回さない策に出たようだ。出雲や吉備と手を組み、関門海峡と明石海峡を封鎖した気配がある。そのため、近畿地方は鉄の過疎地帯となった。

近畿地方は困窮したが救世主が現れる。日本海側の但馬や丹波(これをタニハと呼んでおく)が鉄を含めた先進の文物を、独自のルートを使い、近畿地方、近江、東海に流し始めたのだ。一帯は次第に富を蓄え、その後ヤマトに集結した。

これが、纒向遺跡誕生の筋書きであり、あわてた吉備と出雲は北部九州との盟約を反故にして、あわてて纒向にやってきたのだ。北部九州の土器がヤマトにやってこなかったのは、むしろ当然のことだった。そしてヤマト連合は、大挙して北部九州に押しかけたわけである。

■縄文への「揺り戻し運動」

史学者の多くは、邪馬台国論争にばかり気をとられているから、近江と東海の動きを見誤っていたのだ。ヤマト建国のヒントは、目の前にぶら下がっていたのに、「邪馬台国の敵・狗奴国は近江や東海」という、誤った見識が邪魔をしていたのだ。

そして、ここがもっとも大切なところなのだが、ヤマトの纒向に集まってきた地域が、「ほぼ銅鐸文化圏」だったのである。彼らは、銅鐸の中に、縄文的な意匠を描いていた。ここを無視することはできなくなってくる。

※省略

ヤマト建国とは「縄文的な社会への揺り戻し運動」だったのではないかと思えてくる。主導したのは、もちろん、銅鐸文化圏の人びとである。「ありえない」と、反発を受けそうだが、考古学者はすでにそう考えているのではないかと思える節がある。

縄文時代を通じて、西日本は東日本に比べて人口が少なかったが、寒冷化した縄文後期は、西日本の人口が増えている。一部は、東日本から人の流入があったようだ。人口密集地帯だった関東から、北陸・東海、関西、中国、四国、九州へと人の流れがあったことはすでに触れている。

やがて弥生時代になると、西側から水田稲作の文化が流れ込み、弥生化が始まる。また、弥生前期を代表する遠賀川式土器が盛行していったのだ。

ところが、紀元前4~3世紀からあとの瀬戸内や近畿では、文様を排した遠賀川系の土器に代わって、土器に櫛などの道具を用いて文様を刻む風習が戻ってきたのだ。これが、弥生時代中期後半の紀元前1世紀ごろまで続く。縄文中期の全盛期の土器に似ているのだ。

弥生前期の終わりごろから、分銅形土製品(フィギュア)が瀬戸内海を中心に登場する。これは、縄文時代晩期末に西日本で作られた土偶が起源だ。やはりこれも、縄文回帰現象といえる。

※省略

纒向は「東側から来た人間がヤマトを支配するにはもっとも都合のよい場所」であり、いまだはっきりと固まっていない新政権のもとで、いざというときは東側の山や高台に陣を構えることも可能だったし、東に逃れ、あるいは東からの援軍を呼び込める場所だったのである。(関裕二 歴史作家)

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20211009-00010000-voice-pol

2 名前:一般よりも上級の名無しさん 投稿日時:2021/10/13(水) 22:57:17.98 ID:jgjDI1PV0
独立国家やまと
3 名前:一般よりも上級の名無しさん 投稿日時:2021/10/13(水) 22:58:41.91 ID:uDuGNalj0
大和朝廷はまじで朝鮮人だらけなのですが
22 名前:一般よりも上級の名無しさん 投稿日時:2021/10/13(水) 23:19:53.40 ID:US4yyuVq0
>>3
無知だねぇ
朝鮮人という民族ができたのは、10世紀の白頭山噴火により、それ以前の半島住民が絶滅に近い人口減少に見舞われて以降の事
大和朝廷ができた頃の半島住民は、倭人と中国人と遊牧民で、大和朝廷に大きな影響を与えた渡来人とは、中国人だよ
4 名前:一般よりも上級の名無しさん 投稿日時:2021/10/13(水) 22:59:14.48 ID:aK56hIEk0
普通に西側勢力に支配されたのでは?
今だって西側に敗北している状態だし
5 名前:一般よりも上級の名無しさん 投稿日時:2021/10/13(水) 23:00:32.82 ID:oDwZsTaP0
やはり国の名前は漢語の日本よりヤマトのほうがいいな
7 名前:一般よりも上級の名無しさん 投稿日時:2021/10/13(水) 23:02:49.89 ID:JMDhuP2u0
縄文て
渡来人は大陸系なのにね
8 名前:一般よりも上級の名無しさん 投稿日時:2021/10/13(水) 23:03:00.11 ID:gTBSWwld0
バカめと言ってやれ
9 名前:一般よりも上級の名無しさん 投稿日時:2021/10/13(水) 23:03:07.63 ID:8ddukq7Z0
そして佐川や西濃も建国
11 名前:一般よりも上級の名無しさん 投稿日時:2021/10/13(水) 23:05:28.88 ID:q2lXxrhW0
>>9
おるかー!
10 名前:一般よりも上級の名無しさん 投稿日時:2021/10/13(水) 23:05:08.33 ID:EUdsUGfh0
>>1
邪馬台国の位置すら確定してないのに何を根拠に言ってんの?
古代史て未解明の部分が多いからってバカが好き勝手なこと言うよな
12 名前:一般よりも上級の名無しさん 投稿日時:2021/10/13(水) 23:06:40.42 ID:Atrl3WUr0
>>10
もう殆ど纒向遺跡で確定に近いよ
16 名前:一般よりも上級の名無しさん 投稿日時:2021/10/13(水) 23:09:11.15 ID:x6KKG8p70
>>10
歴史学者ならともかく
歴史作家なんだから好き勝手書いていいだろ
14 名前:一般よりも上級の名無しさん 投稿日時:2021/10/13(水) 23:08:36.42 ID:N8ZG9c2P0
関裕二

最後にこの名前を見てガセだとわかった。

20 名前:一般よりも上級の名無しさん 投稿日時:2021/10/13(水) 23:15:35.03 ID:q2lXxrhW0
>>14
蘇我入鹿=聖徳太子論 好きよ
15 名前:一般よりも上級の名無しさん 投稿日時:2021/10/13(水) 23:08:38.14 ID:UBbO6Sd30
箸墓の原型は千葉の神門古墳群にあるしな
17 名前:一般よりも上級の名無しさん 投稿日時:2021/10/13(水) 23:10:19.11 ID:xbewqAFH0
うーん
北部九州が鉄の輸出を制限して、明石海峡と関門海峡を封鎖して、っていう辺りの話を
初めて聞いたので、そのあたりの根拠や傍証を知りたい

なんだか「朝鮮(=倭国)が日本列島を支配していたのを日本国(≠倭国)が駆逐した」説の亜流な気がする

19 名前:一般よりも上級の名無しさん 投稿日時:2021/10/13(水) 23:15:15.89 ID:UBbO6Sd30
>>17
単純に北九州の反乱だな
中央政府へ舶来品を輸入するための中継地だった北九州が舶来品を横領して反乱したと考えるのが自然
本州と同じ墓制の方形周溝墓の平原は、反乱軍に舶来品を渡すことを拒絶してヤラレちゃったんだろう
21 名前:一般よりも上級の名無しさん 投稿日時:2021/10/13(水) 23:18:44.94 ID:dtMgAP9N0
不思議なんがさ

古事記読んでると天孫降臨は九州の鹿児島県なわけだろ?
なんでその後にヤマトタケルの九州討伐が始まるんだ?

23 名前:一般よりも上級の名無しさん 投稿日時:2021/10/13(水) 23:20:00.26 ID:UBbO6Sd30
>>21
それ、アホが村興しで勝手に笠沙と名付けただけw
25 名前:一般よりも上級の名無しさん 投稿日時:2021/10/13(水) 23:22:49.52 ID:dtMgAP9N0
>>23
26 名前:一般よりも上級の名無しさん 投稿日時:2021/10/13(水) 23:25:28.61 ID:8ModXQCa0
歴史作家って何だよ
捏造でもおもしろければ何でも良いって職種か
30 名前:一般よりも上級の名無しさん 投稿日時:2021/10/13(水) 23:33:36.13 ID:/no7Oc+E0
「考古学者はすでにそう考えているのではないかと思える節がある。」

by 歴史作家

32 名前:一般よりも上級の名無しさん 投稿日時:2021/10/13(水) 23:35:23.05 ID:5P0zMMOe0
ニュー速でやるな。
歴史板に帰れ。
空気読めや、老害どもが
33 名前:一般よりも上級の名無しさん 投稿日時:2021/10/13(水) 23:37:49.74 ID:Mjv/vnNw0
聖徳太子は蘇我入鹿である
34 名前:一般よりも上級の名無しさん 投稿日時:2021/10/13(水) 23:38:17.77 ID:OJPSC3Zi0
日本武尊の東国遠征したのは4世紀半ばだったと思うが、東海地方から関東に大国はなく大和や九州より遅れているとはいえ既に弥生稲作文化圏で縄文文化圏ではないはず。
35 名前:一般よりも上級の名無しさん 投稿日時:2021/10/13(水) 23:39:18.92 ID:UBbO6Sd30
同じような勘違いとして、倭王帥升がある

帥=将軍
升=昇

倭王帥升というのは帥升という名前の倭国の王、ではなくて、倭国の王はかつての将軍が王に昇り詰めたと書いてある

36 名前:一般よりも上級の名無しさん 投稿日時:2021/10/13(水) 23:40:11.45 ID:igu+aJLU0
>>1
内容については言及しない。
ただ、よくこれだけ、まるで見てきたように文章が書けるものだと感じる。
文系はこればっかり。
37 名前:一般よりも上級の名無しさん 投稿日時:2021/10/13(水) 23:40:38.76 ID:Of1Eq8gn0
>>1
スレタイに このお話はフィクションです って書いとけよ
38 名前:一般よりも上級の名無しさん 投稿日時:2021/10/13(水) 23:41:09.12 ID:toTH0TiN0
中原の文明に対する北方騎馬民族、遊牧民、狩猟採集民達のような関係だったのかもな。

普段は長城の向こう側に追いやられてはいるが、時に大挙してやってきて、洪水のごとくあっという間に席巻される。

コメント一覧

タイトルとURLをコピーしました