2025年9月12日 5時00分 〈朝日新聞〉
寄稿・市川沙央さん 小説家
https://www.asahi.com/articles/AST991S3BT99UPQJ00FM.html「対話でさぐる 共生の未来」
昨年秋に東京ミッドタウン八重洲カンファレンスで開催された朝日新聞社主催の一大イベント「朝日地球会議2024」のテーマです。SNSでフォローする作家さんの登壇告知ポストから興味を持ち、イベント内容を公式サイトでチェックした私は、とても驚いてしまいました。〔誰ひとり取り残さず、すべての人が暮らしやすい持続可能な地球と社会について、みなさまとともに考えていく「朝日地球会議」〕。輝かしい理念に続いて紹介される70人近い登壇者は、すべて元気そうな人ばかり。障害当事者や家族あるいは支援者の立場の人すら、一人もいないのです。高校生・大学生ゲストの10人を含めれば、登壇者合計76人中のゼロ。20以上を数えるプログラム(セッション)のテーマにも、障がい者に関するものは一つもないようです。では会場参加者のアクセシビリティはどうなっているのかと、事務局に問い合わせてみたところ、各セッションに手話通訳も同時字幕も用意されていない旨のお返事をいただきました。
均質的な知性および移動や会話に困難のない健常な身体を持った人だけを76人も集めて、聴衆に聞こえや認知のアクセシビリティを保障する意志も感じられない「対話でさぐる 共生の未来」。朝日新聞は、いったい誰と、何と共生するつもりなんだろう。
……クマ?
「共生」は、地球環境や生物、異文化などさまざまな文脈で使われる言葉ではありますが、「共生社会」を検索すれば分かるように、我が国ではまず第一義に障がい者の包摂を考えるための言葉だったはずです。とりわけて日本は「相模原障がい者施設殺傷事件」という凄惨(せいさん)な障がい者大量殺戮(さつりく)事件が起きた国なのですよ。あの事件以後の我が国で「共生」の語を使うことの意味と義務について、「朝日地球会議2024」の企画立案者と承認者の頭には一片も浮かぶことがなかったというなら、残念な思いを通り越して、何かもっと極めて深刻な問題が〈私〉とあなたがたの間に横たわっているのじゃないか。そんな疑いが湧いてくるのです。〈私〉とは一市民でありまた一障がい者としてこの社会に暮らし、ついでに言えば朝日新聞デジタルを購読する一人でもある市川沙央という私のことですが。
アクセシビリティに関して無理な要求はしていません。同時期に東京国際フォーラムで行われていた東京都主催の「だれもが文化でつながる国際会議」では、手話通訳・同時字幕、パンフレットのテキストデータ提供があるだけでなく、それらアクセシビリティサポートの情報が公式サイトのトップに明記されています。ただでさえ障がい者はどこへ行こうとしても下調べと事前連絡を課され〈問い合わせ疲れ〉をしています。そもそもドアが開いているかどうか分からない場所に、必要もないのにわざわざ行ってみようとは思わないでしょう。クローズドな健常者ファーストの場を作っておいて、あたかもサポートのニーズが存在しないように見せかける、それのどこが「対話でさぐる 共生の未来」なのでしょうか。重箱の隅をつつくようですが「朝日地球会議」公式Xは、8月末現在で投稿する画像にALT(代替テキスト)を付けてすらいませんね。
誤解のないように言っておきます。私は障がい者への配慮の不足を批判しているのではない。
「共生」という語をめぐる思考の不徹底を問うているのです。
■「共生」をめぐる思考の不徹底
(字幕は付きませんがその代わり)各セッションの内容は後日、朝日新聞紙面や朝日新聞デジタルでご紹介予定です――と事務局から教えていただいたので、抄録記事を読みました。私は朝日新聞の現状認識に対して、なお疑問を深めざるを得ませんでした。
マイノリティの訴える困難や課題が、マジョリティの関心事にいつのまにかすり替えられ、小さく弱い声がかき消されてしまうのは、非常によくあることです。マイノリティの運動の簒奪(さんだつ)、などとも呼ばれています。しかしよりによって「共生」という言葉を簒奪するとは。障がい者を対話(セッション)から排除し、人手不足が及ぼす今日明日の生活の不安、生存権すらおぼつかないかもしれない未来への危機感を、健常者の感覚で嗜好品の選択肢の問題に矮小(わいしょう)化してしまうとは、あまりにも恥ずべき簒奪だと思いませんか。
(※以下略、全文は引用元サイトをご覧ください。)
関連
「共生」への取り組み、強化します 市川沙央さんの寄稿を受けて 朝日新聞社
https://www.asahi.com/articles/DA3S16300654.html
配慮の前に対話をなんだよな
昔のドキュメンタリーで胎児性水俣病と議員の対面シーン見たことあるけれど完全に小さい子扱いの話し方でまあまあ落ち着いてて内容しか話していなかった
彼らは確かに障害を負っているけれど知的障害ではないのだよね
合理的配慮するための対話が何故ないのかだよな
独身男性もホモもハゲもチビもデブも
貧乏人も大金持ちも赤ん坊もジジイも大谷も
そこにいないと納得しないって話になるやん
アホくさ
意思疎通の出来ない人間は人足り得るのか
何故健常者として裁判を受けられないのか
余程人の流れが少ないところ以外だと不便はあるけど介添者がいなくても単独で車椅子や白杖で移動できる人にはインフォメーションがどこにあるか分かればあとは自分でどうにかできるように設備が整ってるよ?自分も病気で視覚障がいギリギリまで視力が落ちたから実感できる
ただ光と影のコントラストが激しい建物や薄暗い店内のカフェとかは見えづらい、階段の縁や床の点字ブロックがステンレスの銀色で暗いと見えづらい、昭和の時代に整備された歩道の段差はベビーカーや車椅子の人には難儀だなと思うことはあるけど
以上です
デカイ魚の回りにくっついてる小さな魚はデカイ魚の側で天敵に捕食されない代わりに皮膚の寄生虫を食べて共生関係を築いてる
こんな感じじゃなかったけ?
人間社会を指しての用途とこの国で使われて来た文脈で考えればこの筆者の意見は正しいよ
はじめて知った
内閣府も文部科学省も共生社会を
これまで必ずしも十分に社会参加できるような環境になかった障がい者等が、積極的に参加・貢献していくことができる社会
と定義してる
なんで元々の意味を持つ言葉を(拡大的に)使ったんだろうな(元々の意味が邪魔になるだろ)
それを示す言葉として造語でも作りゃいいのに
言葉の意味が文脈で変わるのは別に自然では?
朝日新聞主催のこのイベントで「対話で探る 共生の未来」とやれば
障がい者等との共生社会になるのは普通だと思うけど
変わるじゃなくて意図的に変えたんでしょ?
元々生物学の用語
それを人間社会で使えば意味が変わるのは当たり前としか
君が何を言いたいのかイマイチ分からない
自分の立場から100%の気持ちをぶつける
潔いけど悲しさも感じさせる
その共生、寄生じゃないですか?
障がい者はわがままが定着したからな
誰かさんのおかげで




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