【悲報】ベトナム、残留日本兵がベトナム戦争で戦ったことを隠していた

1 名前:一般よりも上級の名無しさん 投稿日時:2020/04/30(木) 03:01:14.17 ID:IsFfBzn3M

井川省

井川 省(いがわ せい、1913年4月14日 – 1946年)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少佐。日本の敗戦後にベトナム独立のためにインドシナ戦争に参加して戦没。

井川は歩兵操典などの日本軍の教本をベトミンのために仏訳するとともに、ベトミンの対仏戦略・戦術や兵員訓練に関する指針を執筆している。
また、中・小隊長級のベトミン軍幹部に軍事教育を施す一方、ベトミン軍の採るべき戦術についてグエン・ソンと日常的に意見を交わしていた。

1946年(昭和21年)3月21日に離隊し、ベトミン軍に参加した。
同年、井川は防戦指導のため、ジープを運転し、数十人のベトミン兵を率いて中部高原の要衝プレイクへ通ずる国道(山道)の中間地点で仏軍の待ち伏せ攻撃に遭った。
一行の中にいた少年兵ファン・タイン(後、人民軍少将)によると、井川は人為的な倒木が道を塞いでいるのを見てジープを止め、拳銃を構えて下車し、後続のトラックに乗っていたベトミン兵全員に退避を命じた。その瞬間、前方から仏軍の機銃弾が殺到、井川少佐は兵士数人と共に戦死した(享年33)。
立川京一によると、フランスの軍関係資料では井川の死体からはベトミンの採るべき戦術に関するメモが発見された。
そのメモにはフランス軍部隊の最弱点部分をドリル的に攻撃して相手を混乱状態に陥れる「特攻班」の育成計画が記されていたという。[要出典]
井川の死後に設立されるクァンガイ陸軍中学は、井川の意志を受けて中原が設立を提言したともされている。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/井川省

グエンソンのベトナム語には一言も触れられていない
https://vi.m.wikipedia.org/wiki/Nguyễn_Sơn

2 名前:一般よりも上級の名無しさん 投稿日時:2020/04/30(木) 03:05:24.87 ID:xUWxsG3H0
リンクぐらいまともに貼ろうよ
3 名前:一般よりも上級の名無しさん 投稿日時:2020/04/30(木) 03:07:23.01 ID:IsFfBzn3M
>>2
(ヽ´ん`)「ん、、、ちゃんとしたソースもあったんだけど、どっかいっちゃった、、、」
4 名前:一般よりも上級の名無しさん 投稿日時:2020/04/30(木) 03:08:06.20 ID:ut7yTssd0
無名なだけだろ
5 名前:一般よりも上級の名無しさん 投稿日時:2020/04/30(木) 03:13:38.87 ID:IsFfBzn3M

元日本兵の貢献、ベトナムで認知の動き 「封印の歴史」報道

 ベトナムで敗戦を迎えた元日本兵が、ホー・チ・ミン率いるベトナム独立同盟(ベトミン)に参加、独立を目指した抗仏戦争(第1次インドシナ戦争、1946―54年)を共に戦ったことを公に認知する動きがベトナム国内で出ている。
元日本兵の存在はベトナムでは「封印された歴史」だったが、ハノイ大で昨年、研究会が2度開かれたほか、複数のベトナム紙も元日本兵の貢献を大きく報じた。

 8月7日付のベトナム紙ティエンフォンは「ホーおじさん(ホー・チ・ミン)の兵士になった日本兵」の見出しで日本兵が教官を務めたベトナム初の陸軍士官学校元幹部の手記を大きく掲載。
「近代的な軍に変わろうとしていたベトミン軍には日本兵の支援が必要だった」などと指摘し、ベトミンに大量の武器を供与した井川省(いがわ・せい)少佐や陸軍士官学校教官の中原光信(なかはら・みつのぶ)少尉ら功績のあった元日本兵数人を実名で報じた。

 抗仏戦争で多くの元日本兵が死亡し、「革命烈士」の称号を贈られた人がいることも紹介した。

 40年にベトナムに進駐した旧日本軍をめぐっては、これまでは「侵略軍」として断罪されることが多かった。
近年、両国の経済関係が緊密化する中で、大阪経済法科大の井川一久(いがわ・かずひさ)客員教授らが、残留日本兵の功績を認めるようベトナム政府に強く働き掛けてきたことなどが元日本兵認知の背景にある。

 井川教授によると、ベトミンに参加した元日本兵は約600人。(1)敗戦で日本の将来を悲観した(2)現地に恋人がいた(3)抗仏戦を決意したベトナム人への共感―などが理由という。

 元日本兵は「新ベトナム人」と呼ばれ、ベトミン軍に軍事訓練などを指導して共に戦い、約半数が戦病死したとみられている。54年のジュネーブ協定締結により抗仏戦争が終結した後、150人以上が日本に帰国した。

 井川教授は「抗仏戦を有利に展開する決定的な役割を日本兵が果たしたことを歴史として残さなければならない」と述べ、ベトナムに資料館をつくる活動を進めている。

 似たような戦後を生きた日本兵としては、対オランダ独立戦争に参加したインドネシア残留日本兵の存在が知られている。

 ■ベトナムと旧日本軍 1940年、フランス領のベトナムに進駐した日本軍は45年3月、フランスの植民地権力を解体しベトナムを形式的に独立させた。
同年8月の日本の敗戦を機にベトナム独立同盟(ベトミン)の蜂起で8月革命が起き、9月にベトナム民主共和国が独立を宣言し、ホー・チ・ミンが初代大統領に就任。
しかし、ベトナムの再植民地化を狙うフランスと衝突し、46年に抗仏戦争(第1次インドシナ戦争)が始まった。
ベトナムにとどまった旧日本軍兵士がベトミン側に参加。
ディエンビエンフーの戦いで敗れたフランスは54年7月にジュネーブ協定を締結、戦争は終結したが、ベトナムは南北に分断された。(共同)

https://hogetest.exblog.jp/1046098/

6 名前:一般よりも上級の名無しさん 投稿日時:2020/04/30(木) 03:13:53.13 ID:IsFfBzn3M
勝手に封印された歴史にされてた
7 名前:一般よりも上級の名無しさん 投稿日時:2020/04/30(木) 03:14:56.56 ID:RfGBTv7A0
要出典の情報って根拠の無い想像だから
要出典と書く必要も無く削除すべきなんじゃね

Wikipedia作った爺さんはどう言うつもりで要出典というルール作ったんだろ

9 名前:一般よりも上級の名無しさん 投稿日時:2020/04/30(木) 03:15:33.62 ID:IsFfBzn3M
>>7
そうなっちゃうよね
1だけだと、妄想スレ立てだと思われちゃう🙄
8 名前:一般よりも上級の名無しさん 投稿日時:2020/04/30(木) 03:14:58.27 ID:IsFfBzn3M
失敗しちゃったから、もう一回スレ立て直そうかな😔
10 名前:一般よりも上級の名無しさん 投稿日時:2020/04/30(木) 03:18:45.23 ID:IsFfBzn3M
まぁ、ベトナム人が解放したといっても間違ってないし、
ベトナムにとっては、ベトナム人の力のみで解放したとしなければ、
次の戦争でやる気がなくなって、国の存立が危うかったのかも知れない😌
11 名前:一般よりも上級の名無しさん 投稿日時:2020/04/30(木) 03:20:22.54 ID:bf7MHRTR0
旧軍の中に善意の将兵が少数ながらいたという話なので、
旧軍が解放し独立させたとかいう事ではない
15 名前:一般よりも上級の名無しさん 投稿日時:2020/04/30(木) 03:23:11.37 ID:IsFfBzn3M
>>11
まさにそうで、侵略軍というのも正しさがあるし、
一部が多少役に立ったというのもあるかも知れないし、
ベトナム人の力によって解放したというというのも大正義がある
12 名前:一般よりも上級の名無しさん 投稿日時:2020/04/30(木) 03:20:28.33 ID:IsFfBzn3M
結論から言うと、勝利したベトナムはすごい😳
13 名前:一般よりも上級の名無しさん 投稿日時:2020/04/30(木) 03:22:00.77 ID:87d9GoTv0
越の時代からベトナムは強い
倭のクソザルと一緒にすんな
14 名前:一般よりも上級の名無しさん 投稿日時:2020/04/30(木) 03:22:20.06 ID:e6VMkYJoM
大日本帝国に捨てられた人達が、植民地からの独立というアジア解放の一部を
担ったのは大いなる皮肉だな。
なお残留日本人の存在は現地では知られており、数年前名誉板長が訪問してニュースに
なってた。
16 名前:一般よりも上級の名無しさん 投稿日時:2020/04/30(木) 03:24:51.35 ID:1QkDnIr40
この戦いでベトナムに残った日本人を訪ねたドキュメンタリーあったな
17 名前:一般よりも上級の名無しさん 投稿日時:2020/04/30(木) 03:25:26.53 ID:IsFfBzn3M
まぁ戦争をボードゲームに例えたら、
駒の組み方や定跡を教えて、こうやって考えて、勝つんだよって言った程度なのかも知れない
そこから本当に辛く長い戦いに勝利したのはベトナムの力という他ない

俺はいつの間にか、戦い方はワシが教えたって言いたいだけの老害になってしまったのかもしれないな😫

21 名前:一般よりも上級の名無しさん 投稿日時:2020/04/30(木) 03:29:51.56 ID:6y/DwMUc0
>>17
小林よしのりだっけ?
インドネシアの独立は旧日本兵のおかげだとか言ってるのは

ほとんど現地の独立義勇兵を無能呼ばわりしてるに等しいんだが、恥ずかしくないんだろうか?

18 名前:一般よりも上級の名無しさん 投稿日時:2020/04/30(木) 03:26:15.72 ID:G+JSgfghp
ベトナム人レイプして虐殺したキムチ軍とは大違い
19 名前:一般よりも上級の名無しさん 投稿日時:2020/04/30(木) 03:27:00.52 ID:IsFfBzn3M
日本に軍事技術を教えにきたドイツ人将校がどれだけ有名かという話だしな笑
その程度なのかも知れない笑
20 名前:一般よりも上級の名無しさん 投稿日時:2020/04/30(木) 03:28:42.94 ID:IsFfBzn3M
クレメンス・ヴィルヘルム・ヤーコプ・メッケル(Klemens Wilhelm Jacob Meckel、1842年3月28日 – 1906年7月5日)はプロイセン王国及びドイツ帝国の軍人。
明治前期に日本に兵学教官として赴任し、日本陸軍の軍制のプロイセン化の基礎を築いた。

メッケルが日本に及ぼした影響

メッケルが日本の戦略思想に与えた影響について、高山信武は以下のことを挙げている。[3]

日本の活躍の場が大陸であるとして、大陸に兵を送った際の補給のための施策を提案した。
渡河作戦用の舟艇を鉄製にすることを提案し、日本軍人から冷笑されたが、試作してみて効果があったため、以後鉄製舟艇が採用された。
軍備・軍制の改革のため臨時陸軍制度審査委員会が作られたが、メッケルも顧問として参加し、諮問に応じた。これにもとづき、陸軍は歩兵操典を改正したが、メッケルの影響によりドイツ式運用を取り入れているところが多かった。
メッケルはしばしば参謀演習旅行を計画統裁したが、これは陸軍大学校の伝統行事となった。
包囲重視、緒戦必勝、兵站の重視、健兵養成、作戦及び精神力の強調、主動権の確保といったモルトケ継承の戦略思想を徹底したことで、日本兵学に大きな影響を与えた。
東京青山の陸軍大学校の校庭には二つの胸像があったが、それはメッケルと石田保政のものだったという[3]。

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/クレメンス・ヴィルヘルム・ヤーコプ・メッケル

お前ら知ってたか?

41 名前:一般よりも上級の名無しさん 投稿日時:2020/04/30(木) 03:40:16.50 ID:LmpIfLfHa
>>20
ドイツのメッケルはふつーに有名だし(関ケ原の偽逸話含めて)
トルコでもファルケンハインは有名なんじゃないの
44 名前:一般よりも上級の名無しさん 投稿日時:2020/04/30(木) 03:42:15.05 ID:IsFfBzn3M
>>41
そうなの🥺
メッケル先生に感謝🥺🥺🥺ぴえん
22 名前:一般よりも上級の名無しさん 投稿日時:2020/04/30(木) 03:30:31.80 ID:+MkjIWBd0
日本政府「日本兵が独立戦争に加担してるだと!?戦勝国のフランス、アメリカにバレたらまずい、隠蔽出来なかったら国籍剥奪だ。」

こんな感じでベトナムが隠したのではなくジャップ政府が隠蔽してただけなんじゃねえの?

23 名前:一般よりも上級の名無しさん 投稿日時:2020/04/30(木) 03:31:02.35 ID:cfVGigxz0
水島~
24 名前:一般よりも上級の名無しさん 投稿日時:2020/04/30(木) 03:31:10.37 ID:phadv0Yl0
08313004310804加藤厚労相「政府、国として4日ルールを指示したことはない。保健所や医師、国民が誤解し、死者が出てしまった」★2 [スタス★] (628)
124:【安倍政権】加藤厚生労働大臣受診目安37.5度、4日待機の意味を亡くなった方達は誤解していたと言い出した★2 [ちーたろlove&peace★] (1002)
286:【安倍政権】加藤厚労相「政府、国として4日ルールを指示したことはない。保健所や医師、国民が誤解し、死者が出てしまった」 [スタス★] (1002)
329:【安倍政権】加藤厚生労働大臣受診目安37.5度、4日待機の意味を亡くなった方達は誤解していたと言い出した [ちーwa
25 名前:一般よりも上級の名無しさん 投稿日時:2020/04/30(木) 03:31:35.52 ID:IsFfBzn3M
メッケル

陸軍の近代化を推し進めていた日本政府はドイツに兵学教官派遣を要請した。
日本からの度重なる派遣要請に対し、当時フランスが日本に教官を派遣していたことから、ドイツはこれに応じる。
ドイツ側は参謀総長のベルンハルト・フォン・モルトケ(大モルトケ)の推薦により、陸軍大学校(de)の兵学教官のメッケル少佐[1]の派遣を決定し、メッケルは1885年3月に来日した[2]。
メッケルは戦術の権威であり、ドイツ側の好意は日本にとっては望外の喜びであった。
もっとも、本人は「モーゼル・ワインのないところには行きたくない」と、最初難色を示していたという。
だがヒンデンブルクまでも担ぎ出した陸軍挙げての説得交渉に、「一年で帰任出来るならば」と折れた。
ワインの件は、横浜でモーゼルワインが入手できることを知って訪日を決意したという。
日本からの要請は「3年間の派遣」だったが、本人には伏せられていた。

日本陸軍はメッケルを陸軍大学校教官に任じ、参謀将校の養成を任せた。
メッケル着任前の日本ではフランス式の兵制を範としていたが、桂太郎、川上操六、児玉源太郎らの「臨時陸軍制度審査委員会」がメッケルを顧問として改革を進め、ドイツ式の兵制を導入した。
陸軍大学校での教育は徹底しており、彼が教鞭を取った最初の1期生で卒業できたのは、東條英教や秋山好古などわずか半数の10人という厳しいものであった。
その一方で、兵学講義の聴講を生徒だけでなく希望する者にも許したので、陸軍大学校長であった児玉を始め様々な階級の軍人が熱心に彼の講義を聴講した。

メッケルは陸軍大学校で「自分がドイツ軍師団を率いれば、日本軍など楽に撃破出来る」と豪語した。
この言葉に学生のひとり根津一は反発し、その後の講義はメッケルと根津の論争の場になってしまった。
メッケルは「自分は政府命令で来ているのだ、学生如きの侮辱は許さん」と帰国する勢いであった。
仲裁に入った陸軍大学校幹事・岡本兵四郎にメッケルは「根津の如きは到底文明国の参謀に適せず」と述べ、結局根津は諭旨退学となっている。
メッケルの豪語は学生を鼓舞するもので民族的偏見によるものではなかったが、帝国主義世界では新興国であるドイツ人と近代化を急いでいた日本人のプライドがぶつかりあったのだった。
実際、後に根津はメッケルを評して日本陸軍の恩人とし日清戦争・日露戦争での勝利の要因にメッケルの指導をあげている。

また児玉源太郎の才覚を高く評価し気にかけており、「児玉は必ず将来日本を荷う人物となるであろう。
彼のような英才がもう2、3人あったならば……」と評価していた[3]。

3年間日本に滞在した後、1888年3月にドイツへ帰国。
帰国後はマインツのナッサウ歩兵第2連隊長、参謀本部戦史部長、陸軍大学校教官などを経て1894年に陸軍少将へ昇進し、1895年には参謀本部次長となったが、
皇帝ヴィルヘルム2世への受けはよくなく、1896年、プロイセン貴族への授爵が却下され、ポーゼン州グネーゼンの第8歩兵旅団長に左遷される辞令を受けた直後に依願退役。
帰国後も自らが育てた日本陸軍の発展に日頃から気を留め、日露戦争開戦時には満州軍総参謀長に任命された児玉宛に、メッケル自身が立案した作戦計画を記した手紙や電報を送っている。
また欧米の識者が日本の敗北を疑わなかった時期に早くから日本軍の勝利を予想、「日本陸軍には私が育てた軍人、特に児玉将軍が居る限りロシアに敗れる事は無い。
児玉将軍は必ず満州からロシアを駆逐するであろう」と述べたと伝えられている。

1906年、ベルリンにて64歳で死去した。
退役後に連隊長時代の部下の元妻と結婚し、日本陸軍から派遣されてくる留学生に個人授業を行ったほか、音楽に親しみ、オペラも作曲した。

26 名前:一般よりも上級の名無しさん 投稿日時:2020/04/30(木) 03:32:20.59 ID:XCUVEjTx0
NHKの兵士達の証言でもある爺さんが言ってたけど、
当時は本気でアジアの為を思ってた人も居たみたいだね、日本兵も1人1人違う人間だからクソみたいな奴も、大義名分を信じた奴も居たんだろう、、
30 名前:一般よりも上級の名無しさん 投稿日時:2020/04/30(木) 03:34:23.96 ID:1QkDnIr40
>>26
植民地経営がうまくいってた地域なんかは割と真面目な傾向があるね
うまくういってても酷いことしてるとこもあったけど
43 名前:一般よりも上級の名無しさん 投稿日時:2020/04/30(木) 03:41:57.98 ID:XCUVEjTx0
>>30
ジャワ方面とかかね、
まあ酷い事もしてたし、キツい規則押し付けたりもしてたけど
あとタイは植民地じゃないけど駐留してて、ラブストーリーが作られるくらいには現地に受け入れられてたみたいね
まあ日本政府と財閥は私利私欲でしか動いて無かったからあくまで美談は現地の人々の個々の行動次第という感じ
27 名前:一般よりも上級の名無しさん 投稿日時:2020/04/30(木) 03:32:30.80 ID:IsFfBzn3M
メッケル→児玉→日本軍→ベトナム

つまりメッケル先生がすごい🤗

35 名前:一般よりも上級の名無しさん 投稿日時:2020/04/30(木) 03:36:31.76 ID:+MkjIWBd0
>>27
まあ皮肉で言ってるのは分かるけど
ベトナムの戦略戦術って基本ソ連仕込みだし
あとはグエンサップの独創によるところが大きい
37 名前:一般よりも上級の名無しさん 投稿日時:2020/04/30(木) 03:37:40.52 ID:IsFfBzn3M
>>35
まじかー😫
ソ連の軍事支援があったのなら、日本なんて中小企業の技術協力レベルになっちゃうな
28 名前:一般よりも上級の名無しさん 投稿日時:2020/04/30(木) 03:33:42.63 ID:GXuYkNRv0
駐留先に帰化した軍人なんて腐るほどいるだろ
こんなん記事化してたらきりがねえぞ
29 名前:一般よりも上級の名無しさん 投稿日時:2020/04/30(木) 03:34:04.89 ID:IsFfBzn3M
>>28
そんなやつおる?
学校まで作るやつおる?
34 名前:一般よりも上級の名無しさん 投稿日時:2020/04/30(木) 03:35:58.64 ID:1QkDnIr40
>>29
アメリカのフィリピンの植民地化、統治なんかも知らないってこと?
勉強はやっといたほうがいいぞ
36 名前:一般よりも上級の名無しさん 投稿日時:2020/04/30(木) 03:36:44.64 ID:IsFfBzn3M
>>34
ん?
残留して、その国の国民となって戦ったの?
アメリカ人がフィリピン人になったの?
38 名前:一般よりも上級の名無しさん 投稿日時:2020/04/30(木) 03:38:31.89 ID:6y/DwMUc0
>>29
沖縄なんかは駐留米軍の軍人がそのまま居着いて現地女性と結婚して永住するというパターンが多い

学校まで作るやつはさすがに思いつかんが

31 名前:一般よりも上級の名無しさん 投稿日時:2020/04/30(木) 03:35:04.91 ID:6y/DwMUc0
>>28
水木しげるも一歩違えばそうなってたんだよな
32 名前:一般よりも上級の名無しさん 投稿日時:2020/04/30(木) 03:35:06.22 ID:XCUVEjTx0
>>28
俺も嫌儲に帰化した憂国の戦士だわ、、
33 名前:一般よりも上級の名無しさん 投稿日時:2020/04/30(木) 03:35:52.72 ID:IsFfBzn3M
ベトナムに日本人も頑張ったぞと言う前に、
大モルトケさんとメッケルさんに感謝しないといけないな
39 名前:一般よりも上級の名無しさん 投稿日時:2020/04/30(木) 03:38:49.75 ID:B1qmKvJ80
これも出典はウヨ系なのか?
共産主義者でホルホルできる理由が分からないんだが
46 名前:一般よりも上級の名無しさん 投稿日時:2020/04/30(木) 03:43:15.91 ID:XCUVEjTx0
>>39
米帝に抗うという意味では
40 名前:一般よりも上級の名無しさん 投稿日時:2020/04/30(木) 03:39:45.28 ID:IsFfBzn3M
日本には鑑真といいクラーク博士といいメッケル先生といい、
ボアソナード先生といい、沢山教えて貰った🤗
幸運
54 名前:一般よりも上級の名無しさん 投稿日時:2020/04/30(木) 03:47:31.09 ID:XCUVEjTx0
>>40
海外から謙虚に学ぼうとしてた時代の日本の成長は著しかった
厚顔無恥にでしゃばり謙虚さを失ってからはただのクソ体育会系の精神論でダメになった
56 名前:一般よりも上級の名無しさん 投稿日時:2020/04/30(木) 03:50:33.73 ID:IsFfBzn3M
>>54
個人的には中国をバカにし出した時からおかしくなったと思う
そこから日本は糸の切れた凧のようにふらふら墜落する運命にあったと思う
58 名前:一般よりも上級の名無しさん 投稿日時:2020/04/30(木) 03:53:54.12 ID:6y/DwMUc0
>>56
いや俺はバブル期におかしくなったと見てる
石原慎太郎の「NOといえる日本」がベストセラーになって、
「もはやアメリカやヨーロッパから学ぶことはなにもない」と思い上がったのが原因

少なくとも高度経済成長期には、まだアメリカやヨーロッパから技術を学ぼうという意欲はあった

61 名前:一般よりも上級の名無しさん 投稿日時:2020/04/30(木) 03:56:09.60 ID:XCUVEjTx0
>>56
それな、たしか芥川龍之介もそんなこと言ってたきがする
近代以前の日本文化は中国文化を意識してるんだから
中国文化の否定は自己文化否定にもなる
57 名前:一般よりも上級の名無しさん 投稿日時:2020/04/30(木) 03:52:10.10 ID:+MkjIWBd0
>>54
日本っていっつもそのパターンだよな
最初期は必死に学ぶ、途中からダレて来たもう学ぶものはないなどと驕り昂り、最後に成功体験しかないゴミ世代が台頭して潰す
62 名前:一般よりも上級の名無しさん 投稿日時:2020/04/30(木) 03:59:16.29 ID:XCUVEjTx0
>>57
まさにそれ、例がありすぎる
42 名前:一般よりも上級の名無しさん 投稿日時:2020/04/30(木) 03:40:36.36 ID:IsFfBzn3M
鑑真和上🥺
45 名前:一般よりも上級の名無しさん 投稿日時:2020/04/30(木) 03:43:12.89 ID:LmpIfLfHa
チャイニーズ・ゴードンとかも有名だな
47 名前:一般よりも上級の名無しさん 投稿日時:2020/04/30(木) 03:43:31.11 ID:S6oG4Y8P0
隠してないだろ
ディエンビエンフーでも戦ってるし
指導もした

ただし南ベトナム軍のほうにも多く協力してるから
誇れないぜ?

48 名前:一般よりも上級の名無しさん 投稿日時:2020/04/30(木) 03:44:02.50 ID:bf7MHRTR0
帰化はしてないがフランス人で五稜郭まで独断で付いて行って
それにもかかわらず帰国後は大出世したおじさんとか有名やろ
59 名前:一般よりも上級の名無しさん 投稿日時:2020/04/30(木) 03:54:55.44 ID:IsFfBzn3M
>>48
めちゃんこいい人やん🥺

>この頃までの日本陸軍のフランス留学生についてシャノワーヌとブリュネは世話をしていた。
1911年8月12日にパリ近郊の自宅で死去。

えらい😫

49 名前:一般よりも上級の名無しさん 投稿日時:2020/04/30(木) 03:44:21.86 ID:5InDJQQm0
毛沢東と日本軍の関係とか今の中国人はどの程度まで知ってるんだろ
52 名前:一般よりも上級の名無しさん 投稿日時:2020/04/30(木) 03:45:44.98 ID:S6oG4Y8P0
>>49
毛沢東の軍はドイツの影響のほうが大きいだろ
50 名前:一般よりも上級の名無しさん 投稿日時:2020/04/30(木) 03:44:32.32 ID:LmpIfLfHa
ドイツ関連なら、蒋介石政権の顧問を務めたゼークトとか
63 名前:一般よりも上級の名無しさん 投稿日時:2020/04/30(木) 03:59:38.40 ID:IsFfBzn3M
>>50
一方、中華民国の中国国民党政権は、相次ぐ内戦の中で、ドイツの軍事技術と兵器を求めていた[5]。
ゼークトは1920年代から中華民国側と交渉において接触しており、中国側もゼークトに信頼感を抱いていた。
1931年9月18日の満州事変後、国際連盟が事件の調査団を派遣しようとしていた際には、ドイツ代表としてゼークトが候補の一人となっていたが、蒋介石もドイツ代表としてゼークトを希望するほどだった[6]。

またドイツ経済界にとっても中国市場は魅力的であり、中国各地にドイツ系の商社が置かれ、武器の輸出に関与していた[7]。
広州に本拠を置くペルツ中国商会もそんな企業の一つであり中国にドイツ製武器工場を建設しようとしていた。
1931年には同社のアンドレアス・マイアー=マーダー退役大尉がゼークトに接触した[8]。
この交渉は妥結しなかったものの、マイアー=マーダーは国民党広西派との間で広州に武器工場を建設するという協定を締結し、1932年7月にはゼークトと再び交渉を行った[9]。
ゼークトはマイアー=マーダーにハンス・クラインを紹介し、この計画を支援することを決定した[10]。
クラインはやがてペルツ中国商会を交渉の場から引きずり落とし、プロジェクトを独占しようとした[11]が、ゼークトはクラインの動きを完全に支持していた[12]。

一方で蒋介石はドイツ大物軍人を中国に招待する希望を持っていた。
蒋介石と国防部次長陳儀は在華ドイツ軍事顧問団団長ゲオルク・ヴェッツェルと不仲であり、彼らは新たな団長としてゼークトをテストする構想を持っていた[12]。
1932年5月には軍を通じてゼークトを中国旅行に招待したが[13]、政治的な動きを行っていたゼークトが中国訪問を決定したのは1933年1月30日のヒトラー内閣成立後だった[14]。
1933年4月14日にはマルセイユを出港し、5月6日に香港に到着した[15]。ゼークトは日記に「私は静謐を得たいと考え、中国に来た。なんという皮肉であろう。それはすべて金のためだけなのだ。私はここで何をなすべきなのか。」[16]と記している。

ゼークト夫人のドロテーは贅沢好きで知られており[17]、ゼークトが蒋介石の招待に応じたのは金銭が目的であった[18]。

蒋介石はゼークトに3万ライヒスマルクを贈っていたが、5月28日の会談後には1万ライヒスマルクをさらに贈呈した[19]。

めっちゃ金やん😫
まぁタダっていうのもおかしいし、来てくれただけええか😌

51 名前:一般よりも上級の名無しさん 投稿日時:2020/04/30(木) 03:44:58.17 ID:OHhN8rpE0
ベトナムだと一緒に戦ったのか
中国だと人民解放軍の設立に関わったし
日本兵って何だろう
53 名前:一般よりも上級の名無しさん 投稿日時:2020/04/30(木) 03:46:52.94 ID:bf7MHRTR0
南ベトナムについては日本は官民問わず腐敗した傀儡政権を絶賛支援した側
55 名前:一般よりも上級の名無しさん 投稿日時:2020/04/30(木) 03:47:51.44 ID:IsFfBzn3M
>>53
ええええ😫
負け馬に乗ったか🐎
60 名前:一般よりも上級の名無しさん 投稿日時:2020/04/30(木) 03:55:45.72 ID:dL1EzKUP0
毛沢東と朱徳は来るべきジャップ敗退後の第二次国共内戦に備えてたってのはあるけど
それでも百団大戦くらいにはジャップとやりあってるよ

毛沢東たちは蒋介石に比べたらジャップにそこまで軍事的な支援は受けてないだろ
東北民主連軍に日本人教官がいたり残留日本兵が多少いたり鹵獲したジャップ兵器使ったりはしてたが
敗戦後に岡村寧次たちジャップの軍事顧問呼んだ国民党に比べたら全然

64 名前:一般よりも上級の名無しさん 投稿日時:2020/04/30(木) 04:00:36.05 ID:wnROBGSM0
台湾でも残留日本兵が教官になってただろ
ゴルゴで知っただけのにわか知識だけどな!
65 名前:一般よりも上級の名無しさん 投稿日時:2020/04/30(木) 04:01:54.48 ID:IsFfBzn3M
ゼークト夫人のドロテーさんには感謝感謝やな
最大の功労者かも知れない🤗
66 名前:一般よりも上級の名無しさん 投稿日時:2020/04/30(木) 04:02:42.74 ID:8j6MAoeq0
日本に近代軍事学を教えたのはドイツの将校
中国に教えたのもドイツ将校
ドイツは神
67 名前:一般よりも上級の名無しさん 投稿日時:2020/04/30(木) 04:03:28.94 ID:IsFfBzn3M
ドロテーさんが、
あんた!
中国行ったら儲かるやないの!!!
武器輸出企業からも、納入に関してキックバックあるやろうし、
いかんとかアホちゃうの!!!
あんたドイツでいくら稼げるっていうの!!!って声が聞こえる😫
68 名前:一般よりも上級の名無しさん 投稿日時:2020/04/30(木) 04:03:43.72 ID:9JyEbHMKp
逆に終戦後進駐してきた英軍仏軍の手先としてベトミン殺しまくった日本兵も多いけどな

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